ことの始まり 前編

 目を開くと見知らぬ場所にいた。
 見知らぬ、と言っても何処かはわかる。
 消毒液の匂いと清潔さを強調させたような部屋。
 何処かの病院の個室。そのベッドに寝かされていることはそれだけで理解できたが、何故自分がこんな場所にいるのかわからない。
 腕には点滴の針が抜けないよう固定されているが、入院が必要なほどの病気になった覚えはない。
 事情を聞くためにナースコールのボタンを押してから考える。
 いったい自分になにがあった?
 そう思った時、突然気付いた。
 ここに運ばれるまでの記憶がまったくない。その前に自分がやっていたことは確か……。
 そう考えた瞬間、頭痛がした。
 同時に、なにかが嗤う声が聞こえた気がしてそのほうを振り返る。
 自分を見下ろしていたソレと目が合ったのは、そのときだった。
 次の瞬間、本能的に目を逸らしていた。
 そこにいたのは、どう考えても人ではなかった。
 人ならぬ存在など信じるはずもなく、そんなものの話をするものを馬鹿にしていたというのに、自分の傍に立っているそれは紛れもなくそうなのだと本能で理解できた。
 暗い影をまとったそれは、ぼんやりと人の形をしていた。
 ぼんやりと、というのは形は概ね人なのだが輪郭がぼやけていて時々ぐらりと形を崩していたからだ。
 それなのに、こちらにまとわりつくような視線だけは感じる。
 見るな、となにかが警告している。
 まともにアレの顔を見れば終わる。具体的なものはわからないがそう感じるなにかがあった。
 しかし、そう思えば思うほど、目は自然と人間なら顔がある場所へと向いていく。
 そして、ゆらゆらした顔が形作られたそれを――見た。
「……な」
 その瞬間、今度こそ完全に絶句した。
 そこにあった顔を、自分は知っていた。
「なん、で……」
 無意識にこぼれた言葉にソレが明確に、嗤う。
「おいおい、見慣れた顔だろう。なにをそんなに驚く必要がある?」
 言葉が出ない自分の代わりに、ソレは自分が絶句している理由を口にした。
「アンタと一緒にアイツに襲われたやつの顔じゃないか」
 そう――助手と勝手に称して共にフィールドワークについてきていた男のものと同じ顔をしたソレがまた嗤った。
 同じ顔と言ったが、明確に違うものがひとつだけあった。
 目だ。
 人の形をした顔にある目だけは金色に光り、爬虫類かなにかのような冷たさを放っている。
 その顔が、不意にどろりとその姿が溶けたと思うと、なにもなかったように戻る。
「ああ、まだ形がうまく作れないな。腹も減ってるからしかたない」
 ごく当たり前のことのように言う光景は、自分からすれば悪夢としか言えない。
 見知った顔がまるでチョコレートかなにかのように溶けて戻る光景など、正気で見れるものではない。
 ――正気、なのだろうか自分は。
 そうだと自覚がないまま、自分はとうに狂っているのではないか。
 でなければこんなもの、説明がつかない。
「都合よく逃げるのはなしだぜ、センセイ?」
「……は?」
 嗤いながらソレは言う。
「人ってのは都合が悪いことをなしにできると思いやすいのは変わらないらしいな。あいにくと、あんたが狂おうとどうなろうと生きてる限り約束は守ってもらわないと困るし、守らないなんてことをさせるつもりもないんだよ」
 約束? こんなものといったいなにをしたというんだ。
 そもそもその顔の……あいつは何処にいるんだ。
 いや、その言い方は正確ではないと理解している。
 あの男は、どうなったんだ。



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