ことの始まり 前編

「……あれが来ますよ」
 日頃聞くことがないおもしろくないという空気を含んだ声に、誰が来るのかはおおよそ見当がついた。
 いつものように三つ揃いのスーツ姿で壁にもたれかかっているが、その眉間には普段はないシワがある。
 この、基本自分にしか見えない人の姿を真似ているだけの人ではないものはほとんどの人間のことは見下しきっている。
 人ではないので人の心は理解できないし、人のことは良くて玩弄して愉しむためのもの程度にしか思っていなければそれはそうだろう。
 そんなものが、人相手に苛立つことなど普通はない。
 しかし何事にも例外はあり、いまやってくるのがそのひとつだった。
 玄関をノックしたあと、こちらがなにかを言う前に勝手に扉を開いてそいつは入ってきた。
「どうも先生。お元気ですか?」
「変わる要素がさしてないから普段通りだな、そっちは」
「こっちは忙しいのが普段通りですからねえ」
 そう言って笑う顔は遠慮という概念ごと存在していないものだ。
 青柳というこの男は数少ない顔馴染みのひとりだった。
 年齢は確か40と少しだったか。
 身長は190センチ近くあり、服の上からでも鍛えられた身体をしているのがわかる。
 着ているスーツも、給料がいくらか知らないがそれなりに有名なブランドのものだ。
 短く刈り込まれた黒髪に、整えられた無精髭といった点も清潔さを感じさせる。
 そして浮かべているのは人好きしそうな笑顔とくれば絵に描いたような好人物と言いたいが、こいつの場合あまりにも絵に描かれた人物像すぎて現実味に欠けている。
 そう見えるようにすべてを作りこんでいる、そんな印象だ。
 これで職業が刑事とくる。
 誰からも好印象の刑事なんてのは胡散臭いとしか言えない。
 そして、普通の刑事ならこんな場所を事件もないのに訪ねてくるはずがない。
 笑顔のまま、なにも変わらない調子でそいつは口を開いた。
「あちらも相変わらずですか? なんか睨まれてるのはわかるんですけど、俺はあいにくきちんとは視えないんですよねえ」
 ちらりとそっちを見れば、普段しない不快さをやや浮かべた顔をして青柳を睨みつけている。
 それを肌では感じながら笑った顔のままなのだから、知ってはいるがこいつも変わらずなにかしらズレている。
「あれが変わるわけないだろ、いつも通りだ」
 そんなことを言いながら、こいつと出会うことになったきっかけをぼんやりと思い出していた。



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