人魚を買った男の話

 ふた月ばかりが過ぎた頃だろうか。
 妙な空腹がわたしを襲っていた。
 何を食べてもうまいと思えず、しかし常に何かを食べていなければ一時も治まらない奇妙な飢えだった。
 あまり食に頓着したことがないのだが、食べるもの食べるもの、みな「これが食べたいわけではない」という気持ちになり、そのことが一層飢えを助長させた。
 何を食べれば良いのだろう。
 ふ、とそのときに、ここしばらく忘れていたものを思い出した。
 ゆっくりと、台所から持って来た包丁を握って放っておいた桶に近付く。
 アレはいまだにここにいた。
 青い目をしたソレは、わたしに気付くと、にっこりと笑った。
(あら、やっと気付いたの?)
 そんな声を聞いた気がする。
(馬鹿な人ね。買ったものの使い方も聞かなかったなんて)
 ああ、そうだなとわたしは答えたかもしれない。
「お前が教えてくれなかったから悪いのではないか」
(聞かれないことには答えないわよ)
 やはり、こいつは美しくない──少なくとも性格は。
 しかし外見は、初めてわたしはソレを美しいと思った。
 同時に、旨そうだ、とも。
(やっと仕事が果たせるわ)
 ソレはそう言って笑った。
 それは結構なことだ。
 そう思いながら、手に持っていた包丁を振り下ろした。


 飢えは満ちた。
 他のものを食べる気にもならず、わたしは桶の横に座り込み、ずっとそこから動かなかった。
 そしてわたしの口からは、おそらくアイツの声なのだろうもので、絶えず歌が紡がれ続けていた。



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